大阪城の瓦屋根について 屋根の歴史
大阪城の瓦屋根について 屋根の歴史
古くから、大阪のランドマークであり続ける大阪城。
この大阪城の屋根は緑色の瓦の形状をしていますが、銅板製です。
大阪城が銅製屋根
現在の大阪城は昭和6年に、鉄筋コンクリート造りで再建され、その際に銅製の屋根になりました。
屋外に置かれた銅の表面は経年のうちに雨水により酸化し、緑色の「緑青(ろくしょう)」と呼ばれるサビが発生します。大阪城の屋根が緑色である理由は、銅瓦がこの緑青に覆われている為です。
通常、金属にとってサビは劣化の兆候ですが、銅の緑青はそれとは正反対のメカニズムを持ちます。
銅屋根の場合、銅瓦を葺いてからおよそ20~30年で屋根全体が緑青の皮膜に覆われ、これは水や酸に溶けることなく、しっかりと銅表面に付着し、長年にわたり銅内部を守ります。
屋根材の銅瓦は金属屋根の中でも非常に高価で、その耐用年数は100年以上といわれます。
大阪城の金箔瓦
豊臣秀吉が建造した当時は、金箔瓦が使用されていたとされます。
お城に瓦屋根が使用されるようになった経緯ですが、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのは、織田信長の安土城(滋賀県)が最初だとみられています。
金箔瓦の城での本格使用もこの時がはじめてで、広い水堀や山全体にめぐらされた石垣群の向こうに金色に輝く建造物群は、当時の人々の度肝を抜きました。
それ以前は山城などの軍事拠点であった城が、この時から「見せる」城・近世城郭の歴史が始まりました。
このスタイルの築城は信長時代には「許可制」のようなもので、一門衆や重臣といった限られた武士たちだけに許された特権でした。特にきらびやかな金箔瓦は、織田政権の財力・権力の象徴的な存在だったようです。
信長亡きあとに天下人となった豊臣秀吉は、安土城を上回る規模の大坂城で金箔瓦をふんだんに使用して、自分が信長後の正統な天下人であることを目に見える形でアピールしました。
そしてやはり豊臣家の一門や重臣たちの間で普及し、これらの城の普請を担当した大名たちが自領に築城技術を持ち帰ったことによって、近世城郭の普及とともに金箔瓦も全国に広まっていきました。
人見屋根店について
当社は1866年(慶應2年)、日本瓦の原料となる清浄な水と土を求め、京都で日本瓦の窯を開きました。
平成2年には京の老舗として表彰されました。
瓦の原料となる清浄な土と水を求めて
引用:日本農業新聞
当社が窯を開いた京都府の氷所は朝廷の氷室(氷を貯蔵し、夏に献上する場所)があったとされ、清浄な水と土で知られています。
その清らかさから、2019年の大嘗祭(だいじょうさい)では主基殿・主基田(すきでん)として祭殿・神饌(しんせん)をお作りする田として選ばれました。
参考サイト
第43回【鑑賞】最近新発見で話題の「金箔瓦」って何か特別な意味があるの?
https://shirobito.jp/article/593